蔵元見学パート3
それでは次に、酒の母と書いて酒母(しゅぼ)室にご案内いたします。
こちらでは、あちらにある小さなタンクの中に米と米麹と水と乳酸と酵母菌を入れて、暖めたり冷ましたりしながらだいたい10日〜14日程かけて、酒母を育てます。
この乳酸を添加する人工的な作業のやり方を普通速醸酛と呼ばれます。
現在ではこの乳酸を添加するやり方が、主流となります。
明治時代初期頃までは、生酛(きもと)と呼ばれる蒸した米と米麹と水を混ぜ合わせ自然の力を利用して乳酸菌を育てたやり方なのです。
この生酛の作業は、山卸しと呼ばれ夜中から次の日の夕方まで3時間置きに、何人かでお米をすり潰すように櫂入れをするのです。
初めの頃は、寒い冬場でも汗だくになります。
こうして酒母の初期段階で品温を5度〜6度に抑えることで、水に含まれる硝酸カリウムが
硝酸還元菌を作り出し亜硝酸を生み出して雑菌が侵入しても、淘汰してくれるのです。
こうして亜硝酸反応がある内に、米麹から乳酸菌が生み出され乳酸を造り出します。
この生酛の乳酸がまた生酛を守るのです。
それからこの酒母を暖めたり冷ましたりを繰り返しながら甘い糖分に寄ってくる性質を持つ酵母菌が棲み着き増殖してアルコール発酵をし始めて約一ヶ月かかります。
もう一つ明治時代初期に編み出されたのが、山廃酛です。
これはお米をすり潰す事なく、少しだけ蒸米を柔らかく蒸し、酒母を仕込だ後に真ん中に円柱の形をした筒状の穴の空いた汲みかけ器を入れます。
それから丸々2日位かけて、筒状の中ににじみ出る甘い液体を麹と蒸米にひたすら掛け続けます。
後は生酛と同じ要領になります。
要は、蒸米をすり潰す作業を省略した活気的な方法なのでした。
しかしどちらも、一ヵ月以上掛かる醸造方法ですので、常に腐造の危険とは隣り合わせでしたでしょう。
こうしたやり方が廃れ始めたのには、歴史的背景があります。
明治時代中期頃日本の国税の収入の3割が、日本酒でした。
明治政府としては、いかに効率良くたくさんの税金を集めるかが最大のポイントでした。
こうして安全に酒を醸造させる方法として乳酸を添加するやり方が編み出されたのです。
そして明治時代後半には、明治政府は日本醸造協会を立ち上げ、日本全国から優良な清酒酵母を集め、それを培養してさらに全国の蔵元に優良な清酒酵母を使用するように推し進めたのです。
こうして安全に早く出来上がる普通速醸酛が全国に広まったのです。
ただ現在では、全国的に原点回帰を掲げて昔ながらの製法で造られる蔵元が増えております。
奈良県等では、さらに昔の室町時代に編み出された製法の菩提酛(ぼだいもと)を復活させ原点回帰を目指しているのです。
さらなる日本酒の発展のためにも頑張ってもらいたいものです。